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幕末の知られざる
英雄 江川太郎左衛門 英龍(坦庵)

[伊豆の国市]韮山反射炉を作った男

2015年7月5日、ユネスコの第39回世界遺産委員会で、韮山反射炉を含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の世界遺産への登録が決定した。この日本の明治産業革命が辿った国による製鉄の端緒として、実際に鉄製砲を鋳造した韮山反射炉の歴史的な価値が認められた意義は大きい。

この韮山反射炉の建造を企画し、日本に西洋砲術を普及させた伊豆韮山代官 江川太郎左衛門英龍は、幕末の混乱時に志半ばで逝去したため知られていない存在だ。一方で、江川英龍は、領民の事を想う姿勢から数々の施策を行い、「世直し江川大明神」と呼ばれ敬愛されたという。また、江川英龍を学祖とする伊豆の国市韮山にある静岡県立韮山高校は、静岡県内最古144年の歴史を誇る。

韮山反射炉
韮山反射炉

「江川英龍の生い立ち」

江川英龍は、享和元年(1801年)5月13日天領伊豆韮山代官 江川英毅の次男として生まれる。父 英毅の後を継いで韮山代官となったのは天保6年(1835年)35歳の時。

この頃、日本近海に外国船がしばしば現れ、時には食糧、薪、水を求める事態となっていたが、幕府は異国船打払令を制定し、外国船を日本近海から駆逐する方針を取っていた。そんな中、天保8年(1837年)鹿児島湾と浦賀沖に、日本人漂流民の送還と通商、キリスト教布教のために現れたアメリカの商船モリソン号を、薩摩藩、浦賀奉行が砲撃する「モリソン号事件」が起きる。伊豆下田は、太平洋から江戸湾への入り口に当たる海防上重要な地域であり、英龍は従来より江戸湾の海防に大きな関心を持っていたが、この事件をきっかけに更に危機感を強めていった。

伝坦庵自画像
伝坦庵自画像

「英龍と西洋砲術」

英龍は、この頃渡辺崋山、高野長英ら尚歯会の知己を得る。崋山らは、海防問題の改革を強く主張。当時、沿岸に備えた大砲は旧式で、砲術の技術も多くの藩では古来から伝わる和流砲術を採用していた。このような状況下、尚歯会は洋学知識の積極的な導入をはかる場となっていた。また英龍は、尚歯会内で西洋砲術を研究している高島秋帆を知り、西洋砲術を海防問題に活かす道を模索する。

その後、英龍は高島秋帆に弟子入りし、西洋砲術を学ぶとともに、秋帆の砲術演習に家来を参加させる。英龍は老中水野忠邦より、正式に高島流砲術の伝授を認められ、以後それを更に改良した西洋砲術の普及に努める。全国各地から派遣された藩士がこの西洋砲術を学んだ。佐久間象山、橋本左内、桂小五郎(後の木戸孝允)らが彼の門下で学んだ。

「韮山反射炉の建造」

嘉永6年(1853年)ペリー来航直後に勘定吟味役格に登用された英龍は、老中 阿部正弘の命で、江戸湾防備の目的で砲台・品川台場(お台場)を築造する。更に、台場に配備する鉄製砲を鋳造するため反射炉の建造に取り組む。当初は下田で建造が開始されたが、ペリー艦隊の水兵が敷地内に侵入する事件が起きたため、築造場所が伊豆韮山に変更される。実は、江川英龍は、この韮山反射炉の完成に立ち会えていない。幕末の混乱の中 あまりの激務に体調を崩し、安政2年(1855年)1月16日に病死している。韮山反射炉は、跡を継いだ息子の江川英敏により安政4年(1857年)に完成した。

韮山反射炉想像復元CG
韮山反射炉想像復元CG

「韮山反射炉は産業システムのはしり」

反射炉は、17世紀から18世紀にかけてヨーロッパで発達した金属を溶かして大砲などを鋳造するための溶解炉で、内部の天井がドーム状になった炉体部とレンガ積みの高い煙突からなる。石炭などを燃料として発生させた熱や炎を炉内の天井で反射し、一点に集中させて銑鉄を溶かす。熱や炎を反射させる仕組みから反射炉と呼ばれた。

錐台想像復元CG
錐台想像復元CG

韮山反射炉は、現存する反射炉本体のみで完結していたのではなく、関連する様々な建物群や隣接する河川からなる大砲製造工場として産業システムを形成していた。特に鑽開(さんかい)と呼ばれる河川の流水を動力源として水車により大砲を回転させ、錐により砲身をくり抜くシステム(錐台)を備えていた。その当時の模様は、平成28年(2016年)12月にオープンしたガイダンスセンター展示映像の大砲製造の想像復元CGで見ることが出来る。幕末期の日本では、各地に反射炉が築造されたが、そのほとんどが取り壊され現存するのは萩と韮山の反射炉のみ。特に韮山反射炉は、1857年から64年まで実際に稼働し、大砲を鋳造した反射炉である事が大きな特徴となっている。

ガイダンスセンターと反射炉©伊豆の国市
ガイダンスセンターと反射炉

英龍の人、業績を江川邸内に垣間見る
英龍の人、業績を江川邸内に垣間見る

反射炉の近くには、江川英龍をはじめ、代々世襲代官を務めた江川家の住宅・江川邸がある。国の重要文化財に指定されている。江川家は、「質素・倹約」をモットーとしており、江川邸には英龍が着たとされる「継ぎの当たった着物」が残されている。

つぎはぎの当たった着物
つぎはぎの当たった着物

また英龍は、多方面に才能を発揮した人物として知られる。国防上の観点から兵士の携行食としてパンの効用に注目、日本で初めてパン(堅パンに近いもの)を焼いた人物として知られる。邸内には、初めてパンを焼いた際のパン窯も残存している。日本のパン業界からパン祖と呼ばれ、伊豆の国市では毎年1月に江川英龍の功績を称え、「パン祖のパン祭り」を開催、全国高校生パンコンテストも同時開催されている。

パン焼き窯
パン焼き窯

また、韮山江川邸近隣の金谷村の農民を集めて訓練し、日本初の農兵部隊を組織したとされる。農兵の訓練は江川邸表門前の枡形、後に韮山代官所三島陣屋(現在の三島市)で行われた。今でも日本中で使われる「気をつけ」、「右向け右」、「回れ右」等の掛け声は、英龍が一般の者が使いやすいようにと、オランダ語から日本語に訳させたものである。

この故事にあやかり、昭和初期に平井源太郎により当時横浜で流行していた「ノーエ節」を「農兵節として作ったのが、三島夏まつりを彩る「農兵節」である。

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